寄磯獅子舞の由来
文永3年(1266)建立の神石碑が鈴木寛也氏宅の角にある。この後方の東森山頂上には、部落の人たちが海上安全を祈願した安波大明神が祭ってある。
 
【安波大杉神社】は関東から東北地方にかけての太平洋側の漁村に信仰されている神様で、女神やお船霊様であるとされている。発祥は茨城県稲敷郡桜川村にある安波大明神である。(安波様は長渡の根組の半島にもあり、春には大漁と海上安全を祈願して祭りが行われる)

寛永18年(1641)頃には寄磯の人口は30人以上になり平和な年月を送っていたが、天保4年(1835)に大飢饉が起ったため部落民は食料を確保するため悪天候の中へでも出漁せざるを得ない状況が続いていた。

そんな危険な綱渡りの様な漁を繰り返していたある日、渡辺平五郎という人が出漁中の時、天候が俄かに悪化し風浪高く荒れ狂い、小船は大破して乗組員全員が絶体絶命の危機に陥った。がしかし一心で安波大明神を念じたところ、辛うじて海岸にたどり着き危機は逃れる事が出来たという事故が起きた。(この渡辺平五郎が遭難した場所は以後平五郎根と呼ばれるようになった)

渡辺平五郎はこの海難事故から生きて生還出来た報恩御礼として、安波様を一層信仰するために天保6年(1837)に新たに安波大杉大明神の石宮を建立し、自ら神主となり若者に呼びかけ【神風講(じんぷうこう)】という団体を組織し、毎年旧正月16日を祭日と定め、祈願するに至った。

時同じ頃ほかの地域では正月の行事として獅子舞が盛んに行なわれていた。寄磯においても天保4年(1835)の大飢饉に続き、大暴風、大洪水などが相次いで起こり、それに加えて悪病が流行し、困苦決乏のどん底に陥ったので神風講においても、天下太平・五穀豊穣・家内安全・海上安全・大漁満足を祈願する意味において獅子舞を行なうことにした。

そこでこれ程の困苦決乏を払拭すべく霊験新たかな獅子は余程の名作でなければならないと考えで獅子を探していたが、そこへ当時部落の遠藤栄四郎の養子の網地島から来た遠藤英助信近という人の語るところによると『網地島に獅子が二振りあり、時折その箱の中から不思議な音がする。何度開けても箱の中には獅子しか入ってなかったが試しに別々に収めて見たら不思議と音はそれっきりしなくなった。おそらく元気な二振りの獅子が追いかけっこでもして暴れていたのではないか』と言う話が有るのを当主に伝えた。

これを聞いた神風講はこれ程の名作の獅子であれば御利益あらたかなるものと信じ、直ちに網地島に交渉に向かった結果、獅子一振りと付属品として天狗の面、大小の木刀を譲り受ける事と相成った。(この獅子は南部の大工が長渡に働きに来た折に、網地島の獅子と同時に作ったもので、天保6年(1837)年の作と伝えられている)

これを受けて神風講では獅子舞の唄を作り、笛太鼓の囃子をもって旧正月の16日に安波大明神の祭礼に賑やかに行った。以来悪病の流行も治まり、部落民は平和な年月を送ることが出来たのですが、慶応年間の大火災に遭遇したときは神主のの井戸に入れて難を逃れ、明治13年の大火災に遭遇した時は、渡辺松雄氏宅の井戸に入れて消失は免れたものの度重なる火災での汚損が重なってしまい獅子振りが出来なくなってしまった。

その後遠藤栄四郎氏が東京に行った折に獅子を購入し寄付をしてくれたので、再びその年から獅子振りを始める事が出来るようなったのだが、獅子を振る度に雨天が続き困り果て、再び古い獅子を修理して舞うようになった。

上記は石巻市の市報(2010年1月号)に掲載の『文化財たんぼう』(石巻市文化財保護委員執筆)の文章を若干編集して書きましたが、それと殆ど同じような文章が『ライン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学ボン』http://www3.uni-bonn.de/のHPの内部に『寄磯浜獅子舞由来』と題し載ってある。http://hss.ulb.uni-bonn.de/2009/1813/1813-2.pdf 

この論文は【ウィルヘルム ヨハネス 春水】http://www.wilhelm.jp/johasite/index.htmlという研究者の論文ですが、氏は日本で語学教師をしたり、沿岸漁業や民族学、宗教など日本文化の研究をしていたが、研究のフィールドを寄磯に置いた時期も有ったので、冒頭の『去る昭和31年11月11日、当時の実業団の遠藤氏の発議により、寄磯の獅子の伝説が途絶えないよう・・』のような当時の実業団が纏めた資料を入手したのではないかと想像する。
 
とするとこの150〜160年前の出来事は、約50年ほど前には明確にされて多くの部落民が知っていたと思われる。そしてこれに関した出来事がまた数年前にあった。と言うのは寄磯小学校に通う生徒がこの獅子伝説の話を耳にし、総合的な学習の時間や島での合宿のときに調査を行い、更に調査結果を元に『寄磯・網地島兄弟獅子』と言う劇に仕立てた。劇は勿論寄磯でも演じられたが、網地島でも行われた。
http://www.mediaship.ne.jp/~elsyori/kodomo/2007sougo/005/IMAGE001.htm
http://www.mediaship.ne.jp/~elsyori/kodomo/2008sougou/08sougou/sisi3.htm

(2004年長渡公民館 寄磯・網地島兄弟獅子の劇を撮影したビデオ上映会)
網地島では寄磯との兄弟獅子伝説は全く記録にも言い伝えにも残ってなかったようで、関係者も衝撃を受けたようだった。生徒たちは調査した内容を確認するために長渡・網地の両方の獅子を見たり、色々聞き取り調査し、獅子の顔の形や特徴が網地浜の獅子に良く似ていると言うことで確信を深めた。

寄寓にも網地島の獅子頭が作られたのが天保6年。そして漁に出て九死に一生を得た渡辺平五郎が、安波大杉大明神の石宮を建立し、自ら神主となり若者に呼びかけ【神風講(じんぷうこう)】という団体を組織したのも、同じ年の天保6年。寄磯の生徒たちが毎年楽しみにしていた網地島での合宿や活動をしていたその場所が自分が住んでいる集落を守っていた獅子の伝説で繋がっていた事。

網地島と寄磯の兄弟獅子は、この伝説が途絶えさせないように導いたのか、それとも150年の時を越えて再会を果たしたかったのか・・・

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