七つ森古墳

所在地:網地浜小ブチョ(通称七つ森)
時代:江戸時代初期 寛永年間
形状:方形の塚状での4基(内二基は発掘されて破損)

地名七つ森の語源は土が盛られただけの七つの墓が並んでいた為【七つ盛】と呼ばれ、その後に現在の【七つ森】の名称に変わったとの言い伝えがある。

七つ森伝説
この七つに盛られた墓に誰が葬られたかはいまだに不明であるが、これに関しては色々な説がある。
  1. 浪入田の金山は朝鮮半島からの技術者の力も借りて開発がされたがその技術者達が病死した亡骸を埋葬した墓との説。
  2. 浪入田で子牛程の大きさの金鉱石を掘った時の落盤事故で死亡した、数十人の朝鮮人を葬った塚との説。
  3. 衣川の戦いで滅んだ安倍氏の残党がこの島に逃れ、後に掘り起こす目的でその財宝を埋伏したとの説。
  4. 開発に参加した朝鮮人が知り得た情報を外部に漏らさないように彼ら7人の首を打ち埋めた墓との説。
  5. 寛永12年(1635年)3月に池の浜の【蔵春寺】から七つ森に葬った人達の葬列が送り出された。
正宗は朝鮮半島から金堀の技術者を伴って帰った事や、発掘された塚からは朝鮮半島系の生活品が出土されていたとの言伝えも有り、朝鮮人の労働者や技術者に関係していると思われる。またこの地点は島でも標高が一番高い場所でも有り一説には埋められた朝鮮人が死んでも故郷が見渡せる様にこの場所に葬ったとの話もある。更にこの場所は三角点がある場所であるが標高101mの端数1mは墓の高さであるとも言われている。

       

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