『黒船の目的と影響』


鎖国以降から明治維新までの関係した出来事の年表

慶長十八年

1613年

支倉常長・サンファンバウテスタ号でローマへ出港

寛永十年

1633年

鎖国令(〜1636)

   十四年

1637年

島原の乱(〜1638)

   十六年

1639年

徳川幕府鎖国の完成

1696年

大阪商人伝兵衛ロシアに漂着

1710年

何部藩三右衛門ロシアに漂着

享保十三年

1728年

ベーリング第一次北氷洋探検

1729年

薩摩藩若潮丸ロシアに漂着

元文四年

1739年

ベーリング第二次北氷洋探検隊三陸海岸に現る(元文の黒船)

1749年

南部藩多賀丸ロシアに漂着

1776年

ロシア商人シャバリンが松前藩に交易申し入れ

安永七年

1778年

ロシア船が国後島に来航し松前藩に通商を迫る

1782年

伊勢の国神昌丸ロシアに漂着

寛政六年

1786年

ロシア商船が津軽海峡を通過(天明の黒船)

   四年

1792年

光太夫を伴いロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、通商を求める

   五年

1793年

ロシアの使節ラクスマンが松前で日露交渉

1794年

仙台藩若宮丸ロシアに漂着

   七年

1795年

得撫(ウルップ)島にロシア人が住み着く

   八年

1796年

イギリス船が松前へ渡来

   九年

1797年

イギリス船が再び来航

ロシア人が択捉(エトロフ)島に上陸

   十年

1798年

近藤重蔵らが択捉(エトロフ)島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てる

享和三年

1803年

得撫(ウルップ)島監視のため択捉島(エトロフ)へ津軽兵30人が派遣

文化元年

1804年

ロシアの使節レザノフが長崎に来航し通商を求める。幕府は使節をそのまま長崎に留めて置きながら半年後に求めを拒絶

津軽、南部両藩は永久警備を申し渡され、津軽兵30名は択捉(エトロフ)で越冬

   三年

1806年

ロシア軍艦は報復として樺太の松前藩出張所を襲撃

   四年

1807年

レザノフの艦隊が択捉(エトロフ)島の漁港襲撃番屋や倉庫を焼きはらう

幕府は東北諸藩に北方警備の出兵を命じる(約3,000名)

幕府はロシア船打ち払い令を出す

   十一年

1811年

ロシア軍隊が国後島へ上陸

文政八年

1825年

中国・オランダ以外の異国船打ち払い令

   十一年 1828年 シーボルト事件
1839年 アヘン戦争

弘化1年

1884年

オランダが開国を助言したが拒否

嘉永六年

1853年

6月・アメリカ合衆国ペリー総督浦賀に来航(ペリーの黒船)

7月・ロシアの使節プーチャン長崎に来航、通商問題を大きく前進させる

安政元年

1854年

ペリー総督開国を迫り再度浦賀へ来航

/3・日米和親条約締結・開国

ロシアとの国境が定められ択捉より南は日本、得撫(ウルップ)島より北はロシアと定め、樺太は両国雑居地とした

12/21・日露和親条約締結

1856年 アロー戦争(第二次アヘン戦争)

   五年

1858年

アメリカ・イギリス・ロシア・オランダ・フランスと通商条約を締結

明治元年

1868年

明治維新

   八年

1875年

樺太全島をロシアに譲る代わりに千島列島を日本領土へ

昭和二六年

1951年

サンフランシスコ講和条約で日本は千島列島と南樺太の権利請求権を放棄・日本は北方4島を放棄しない姿勢でいたが、旧ソ連は北方4島を含んだ姿勢でいたため両者の意見が平行線をたどる


日本が諸外国と貿易が盛んになる中、ロシアも日本との交易を準備していた。その折り鎖国によって日本国内の船の大きさが制限されていた為か千石船の遭難が相次いでいた。殆どはアリューシャン列島などに漂着していたが、生き残った漂着民は帰化して日本語教師についていた。この事によりロシア側は日本の国内状況を把握していたのではないかと想像する。

宮城県でも松前に向かった仙台藩の千石船若宮丸が1794年にアリューシャン列島オンデレイッケ島に漂着していた。またそれ以前の1782年にも伊勢の国商人大黒屋光太夫が乗った神昌丸が同じくアリューシャン列島アムチトカ島に漂着しているが、この事が後の時代の日露外交の先駆けとなる出来事へつながってゆく。

光太夫は約10年間をロシアで生活していたが、その間にシベリアの自然を研究するキリル・ラクスマン教授に認められ、その後彼の力添えもありロシア政府から帰国の正式許可を与えられるjことになる。光太夫は1792年にラックスマン教授の次男アダム・ラクスマンと共に帰国し、翌93年の日露交渉で大きな役割を果たす。しかし、交渉は決裂しその後は江戸の薬園に軟禁されその生涯を閉じる事となる。

結果的に交渉は決裂したがこれが本格的な交渉の始まりとなり、国内に交易や国防問題で大きな波紋を投げかける事となった。その後もロシアや欧州の船が北の海を度々通過する事が起き、幕府も蝦夷探検や出兵に動き出す。この様に元文の黒船として現れた探検隊の北方航路開拓は、後の日露交易の為の準備でもあったと思われるが、またこの探検隊の成果は別の問題も含んでいた。

それはスパンベアが報告した『得撫(ウルップ)島以北の諸島に関しては即刻ロシア領と宣言する事が可能、 それより南の択捉(エトロフ)島以南の、日本のいわゆる「北方 領土」については、殿下の命令のもと、ただちにロシア領となることを望む』との発言が後の領土問題に関係し、得撫(ウルップ)島以北の千島列島は、言わば既成の事実として、ロシア領であったかのように意識されるようになっていったとされる。この線引きは開国の日露和親条約の年に取り交わされた内容と等しい。

この発言をロシア政府が認めたのか1795年にはロシア人が得撫(ウルップ)島に住み着き、翌々年には択捉(エトロフ)島にも上陸した。日本側はそれに対抗して1878年択捉(エトロフ)島に「大日本恵登呂府」の標柱を立てるに至る。その後も通商交渉は継続されるが実らず、報復や襲撃などの争いに発展し、両国の溝は深くなって行く。幕命により津軽、南部両藩は永久警備を申し渡され、更に奥州からも多くの兵が派遣された。

一般的にペリーの黒船来航が開国につながったと理解されているが、むしろ発端とはなっていたがその他の要因が大きい。1800年以降からアメリカ・イギリス・フランスなどの列強がアジアに進出し戦争も勃発していた。又それに伴い異国船が頻繁に日本近海を通過したり交渉を求めてきたり、それらの国との衝突やいさかいも絶えなかった。増々激化する日露間の争いと日本を取り巻く諸外国との関係が開国せざるを得ない状況を作っていった。

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