『元文の黒船の航程』

黒船の船団は本国から4隻で出航したのだが、天候や他の理由で途中から分かれてしまった為、各地で目撃されていた数が違っていたのだった。
元文四年 (1739年)

旧暦

現在の地名

船の状態

地元との接触

目撃された
船の数

停泊日数

5月26日

4月27日

千島列島

通過

4隻

5月19日

6月18日

宮城県
気仙沼大島沖

錠泊

なし

3隻

当日に移動

5月23日

6月22日

宮城県牡鹿町
網地島波入田沖

錠泊

黒船の船上で初の交易

2隻

1日

5月25日

6月24日

宮城県亘理
荒浜沖

3隻

千葉県房総半島
天津小湊浜沖

投錨

伝馬船で8人上陸
水、食料等の補給

1隻

-

5月28日

6月27日

宮城県石巻市
田代島三つ石崎沖

錠泊

浜役人他数名が乗船し
船内検分

3隻

-

宮城県
牡鹿町谷河浜

投錨

上陸・水の補給

3隻

-

静岡県
伊豆下田沖

通過

1隻

6月23日

和歌山県
紀伊半島沖

投錨

上陸

-

-

7月23日

青森県尻屋崎

通過

-

阿部宗男著 『元文の黒船』からの引用
元文の黒船事件は元文四年 (1739年)に起きたが、実はこの前年に探検隊は日本を目指していた。しかしこの年はカムチャッカで補給した水・食料等が途中で不足してしまい船団は引き返している。そして翌年、再度出航した第二次探検隊が日本に到達することになる。第一次探検隊はスパンベアを隊長とする3隻の船団だったが、翌年の第二次探検隊は同じくスパンベアを隊長とはしていたが船の数は4隻に増えていた。

黒船目撃情報の内、船の数が違う点については、第二次探検隊が千島列島を通過した時点では4隻の船団だったが、途中で1隻が別コースを取った為、気仙沼沖到着時点では3隻に減り、更に天候が荒れて1隻が離れてしまい網地島沖に現れた時には2隻になっていた。この2隻の船こそが隊長スパンベアが乗っていたミハイル号ともう1隻の船だった。やがて天候ではぐれた1隻は再び合流し、亘理荒浜沖に3隻で現れる事となる。また房総沖で目撃された1隻の船は、始めの4隻の船団から離れた船だった。

亘理荒浜沖付近で合流した3隻の船はその後も行動を共にして仙台湾内を航行し、最後は牡鹿町谷河浜で水を補給して帰路に着いた。房総沖に現れた単独行動の1隻の船は更に南下し紀伊半島沖まで下っている。

さて地元民と接触があった網地島、天津小湊浜、田代島、谷河浜、和歌山では何が行われたのだろうか?

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